September 2007
September 30, 2007
なぞなぞ英語発売5周年!!!
僕が以前某英語スクールの役員として働いていた2002年。当時メールマガジンを、スクールの宣伝媒体として3誌発行していた。「英語のことわざでJoyful Life」「英語のなぞなぞでTrain Your Brain!」「英語のジョークでLaugh Out Loud!」。「ことわざ」と「なぞなぞ」は平日日刊で随分続けた。このメルマガによる生徒数増加は、残念ながら成し得なかった。しかし、僕にとって人生最大のチャンスが訪れた。今問題になっている「駅前留学」のNOVAから、「英語のなぞなぞでTrain Your Brain!」を題材にして本を書かないかという誘いがあった。
スクールの運営陣と相談した上で、スクールの仕事の一環として執筆する許可が降りた。ポール・キムという当時スクールでも使用していたニックネームで出版した。タイトルはズバリ「なぞなぞ英語」。そしてNOVA出版局の編集者とほとんどメールのやりとりだけで2ヶ月あまりで内容が決まり、一冊の本が完成した。本文の内容以外のデザインから挿絵までは全てNOVAの方で作っていただいた。偶然にも表紙と内容の色として僕が以前好きだったオレンジ色が採用され、気分も良かった。定価は税込みで¥1,050-と分かりやすい。
その発売日が2002年9月30日。始めは4,000部発行、その後二度再版され、8,000部は印刷されているはずだ。現在何冊売れて、どれくらいの在庫が残っているのか気になるところだ。未だに英語のなぞなぞを主題にした本はこれ以外に無い。アマゾンでも他には昔僕が読んだ岩波ジュニア新書の「英語なぞなぞ集」(1987年発売)が出てくるだけだ。
最近はさすがに「なぞなぞ英語」実物を書店で見ることはできなくなってきたが、未だにアマゾンでは時々売れている。たまにランキングをチェックするのだが、大抵は20万位代より下にあり、一冊売れると1〜3万位代に上がり、また徐々に下がっていく。このくり返しだ。最近もランキングが上昇した。
今回、これを記念して、パワーポイントのスライドで一問分を作ったので、興味ある人はぜひ見て欲しい。最近僕が発行する携帯用メルマガ「英語のことわざ一日一句」で紹介したものだ。
この5年の間に色んなことがあった。皮肉にも「なぞなぞ英語」発売の翌年にはスクールの廃業を経験し、その後近隣のインターネットカフェで2年、往復3時間かかるところの朝鮮学校で2年英語を教えたりと転職を続けた。闘病生活を続けていた父も亡くなった。
でも、発売後間もなく今の妻と出逢い、翌年には結婚もし、この機に乗じて韓国はもちろん、イギリス、オーストラリア、台湾と、海外旅行を楽しんだ。今は簿記などを勉強しながらどうにか起業をしてみようと企んでいる。
こんな状況での僕の個人的な記念日。重なる失業で苦労かけっ放しの妻と二人でささやかなお祝いといこうかと思う。
September 28, 2007
古田選手、初安打!
東京ヤクルトスワローズの選手兼任監督、古田敦也、今季限りで引退なのはとても寂しい。球界デビュー以来世間を驚かしたこと度々。オールスター戦でサイクルヒットしたり、捕手の守備で最優秀選手に選ばれたり、選手会長時代にストライキを決行したり。最後のサプライズが、師匠野村克也監督以来のプレイング・マネジャー就任。
監督就任と同時に稲葉(日本ハムで活躍)、ラロッカ(オリックスの主力)が移籍し、五十嵐と石井のダブル・ストッパー「ロケット・ブラザーズ」は鳴りをひそめ、旧戦力で、メジャーから帰ってきた高津や石井一久に頼る状況に。
そんなこんなで今シーズン古田率いるチームは残念ながら広島東洋カープと最下位争いに参戦中。 でも、青木とラミレスが首位打者を競い、ラミレスは目下打点王だ。 投手でもグライシンガーが16勝を挙げてハーラーダービートップを走っている。なのにどうしてチームはこんな位置にいるのだろう?
1978年に広岡監督のもとで初優勝をしたときには個人タイトルは誰も取れなかったのとは対照的である。
昨日広島市民球場での「代打オレ」と二本のヒット、そしてセレモニー。なかなか感動的。テレビのニュースで見た古田監督の笑顔が良かった。
あと残り数試合、全試合でマスクをかぶり、打席に立ち、有終の美を飾ってほしい。もしかしたらチームも蘇るんじゃないの?
ヤクルトファン歴約30年の僕は、強いヤクルトを象徴していた古田敦也さんに心から感謝の意を表します。
September 06, 2007
反戦歌 「花はどこへ行った?」 ピート・シーガー作
1964年にthe Kingston Trioによってヒットし、その翌年にはPeter Paul & Maryによって世界的にヒット。この後、ベトナム戦争を背景とした反戦歌として多くのフォーク歌手によって世界中で歌われ広まった。Joan Baezも英語やドイツ語で歌ってきた。他にもthe Brothers Fourのバージョンも日本で人気が高かった。
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